2008年01月27日

佐世保乱射

「ルネサンス佐世保」1カ月ぶり営業再開
さて、お客さんは入ってくれるのでしょうか。
あの恐怖を払拭するには大変な努力が必要となりそうですね。

昨年12月14日に発生した散弾銃乱射事件以来、休業していた長崎県佐世保市名切町のスポーツクラブ「ルネサンス佐世保」が15日、約1カ月ぶりに営業を再開した。犠牲となった水泳コーチ、倉本舞衣さん(当時26歳)ら2人の死を悼む献花台は今もなお玄関前に置かれたまま。訪れた会員が花を手向けたり手を合わせる姿が、事件の傷跡を物語っていた。

 オープン前の朝礼では、足に銃弾を受けて手術入院をしていた久津間(くつま)和仁マネジャー(48)があいさつ。「再オープンを笑顔で迎えよう」と約50人のスタッフに呼びかけたが、感極まって言葉に詰まる場面もあったという。

 午前9時過ぎに友人と共に花を持ってやって来た同市天神町の女性(79)は「1カ月ぶりに来てみて不安もある。今もどうしてという気持ちでいっぱい。ご冥福を祈るしかありません」。また、別の同市内の女性(73)は「営業再開には複雑な気持ち。ただ、毎日通っていたクラブなので辞める気はなかった。防犯カメラも付いたということで安心して運動できると思う」と話していた。クラブには、午前10時ごろまでに約100人の会員が入館した。

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2007年11月08日

館林藩を今日は取り上げてみることにする

一日一個の知識です!今日はこれ!

小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政に館林10万石を与えた。これが館林藩の立藩である。康政は検地や館林城の拡張工事、さらに城下町の整備や治水工事、日光脇往還などの街道新設などに尽力し、藩政の基礎を固めた。康政は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍に属して真田昌幸と戦った。戦後、康政は加増移封の話もあったが、館林は江戸に近くて何かと都合が良いという理由から、これを断っている。康政の死後、後を継いだ榊原康勝は大坂の陣において戦功を挙げたが、直後の元和元年(1615年)5月27日、嗣子無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、幕府は由緒ある榊原氏の家名が絶えることを惜しんで、康政の孫で大須賀氏を継いでいた大須賀忠次を康勝の養嗣子として後を継がせた。忠次は元和2年(1616年)1月、家康から終身松平の称号を許されたため、松平忠次とも呼ばれ、寛永2年(1625年)12月11日には1万石の加増を受けた。寛永20年(1643年)7月4日、忠次は陸奥国白河藩に移され、館林藩は廃藩・天領となった。

翌年2月28日、遠州浜松藩から松平乗寿が6万石で入り、再び館林藩を立藩した。承応3年(1654年)1月26日、乗寿は死去して子の松平乗久が後を継ぐ。このとき、乗久は弟の松平乗政に5000石を分与したため、5万5000石となった。そして寛文元年(1661年)閏8月3日、乗久は下総国佐倉藩へ移され、代わって第4代将軍・徳川家綱の弟・徳川綱吉が25万石で入った。綱吉は延宝8年(1680年)、兄が嗣子無くして死去したため、その後を継いで第5代将軍となった。このため、館林藩の家督は綱吉の子・徳川徳松が将軍世子の身分のまま同藩を継いだが、徳松は天和3年(1683年)閏5月28日、わずか4歳で夭折したため、館林藩は再び廃藩、所領は天領となり、館林城は破却された。

宝永4年(1707年)1月11日、徳川綱重の次男・松平清武が2万4000石で入部する。その後、宝永7年と正徳2年の2度にわたって加増を受け、5万4000石の大名となった。第3代藩主・松平武元の代である享保13年(1728年)9月、陸奥棚倉藩へ移された。入れ替わりで若年寄の太田資晴が5万石で入るが、享保19年9月に大坂城代となったため、所領を大坂周辺に移さざるを得なくなり、再び館林藩は廃藩となった。元文5年(1740年)5月、資晴の子・太田資俊が5万石で入って再び館林藩が立藩されたが、延享3年(1746年)9月25日に遠州掛川藩に移され、代わって西の丸老中となっていた武元が5万4000石で再び入った。翌年、武元は本丸老中に栄進し、明和6年(1769年)12月1日には7000石の加増を受けて、6万1000石の所領を領することとなった。第3代藩主・松平斉厚の代である天保7年(1836年)3月、松平(越智)氏は石見国浜田藩へ移された。

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2007年09月27日

マルティヌス・ベイエリンクについて今日は調べてみた

タバコモザイク病の研究をし、タバコモザイク病や口蹄疫の病原体が細菌濾過器を通過することが、ディミトリ・イワノフスキーやフリードリッヒ・レフラーによって示されていたが、レフラーらがこの病原体を微小な細菌と考えていたのに対し、ベイエリンクは未知の溶液状の物体であると考え、その溶液中の分子が感染し増殖する、と考えた。この病原体はその後ウイルスと呼ばれるようになり、1935年にウェンデル・スタンレーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功したことにより、ベイエリンクの主張が正しいことが示された。なお、この業績により、ベイエリンクは1905年にレーウェンフックメダルを受賞している

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2007年08月06日

日露戦争

日露戦争といったらアジアの国が始めて欧州列強の国に勝ったという事でとても大きな意義があります。

日露戦争(にちろせんそう1904年(明治37年)2月6日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と中国満州(現在の中国東北部)を主戦場として発生した戦争である。

戦争の決着をつけたのは海戦であった。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けて地球を半周する航海を続けてきたが、5月27日-5月28日の日本海海戦において、連合艦隊はバルチック艦隊に完勝した。この結果、日本側の制海権が確定した。

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年10月に締結されたポーツマス条約により講和した。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及んだ。さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上った
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

たしかに日本の被害は大きかったけど勝つことに意義があるのではないでしょうか。